ご挨拶 Greeting

次代を拓いた国際人 金子 堅太郎

高橋 みゆき作家・RENプランニング主催

 一片の私利私欲なく国を愛し、故郷を愛し、人を愛し、ひたすら報恩の灯を点し続け生涯を終えた男の記事が新聞に掲載された。昭和十七年五月十六日のことである。激動の明治・大正・昭和を牽引し国事に貢献した偉大な足跡を報じる、その新聞に記された名は金子堅太郎。時は太平洋戦争の最中、敵国アメリカの代表紙までがこぞって報道した。『米大統領の友人逝く』。
 次代を拓いた真の国際人・金子堅太郎の思いは、今も未来を見つめている。

開かれた時代を吸収する麒麟児登場

 金子堅太郎。幼名を徳太郎という。寛永六年(1853年)、二月四日、福岡藩士・金子清蔵直道、母安子の長男として生まれた。生家は筑前早良郡鳥飼村字四反田(現・鳥飼三丁目十四─二五)。樋井川に沿って、現在の今川橋の少し上流に大きな栴檀の木があり土橋があった。その「せんだん土橋」の辺りにチンチク壁が編まれた家が生誕の地である。チンチク壁とは竹壁で筑前下級武士の蔑称でもあった。父の清蔵は勘定所附の軽輩で二十八才。暮らし向きは豊かではなかったが、清蔵は幼い頃から堅太郎の教育に力をいれ、金山和蔵の私塾や正木昌陽の不狭学舎に学ばせた。不狭学舎の塾頭・正木は藩校修猷館出身でその学才は藩内に知れ渡っており、幼い頃から秀童ぶりを発揮する堅太郎に期待をかけていたのだろう。不狭学舎は鳥飼神社に近い御供道(現・今川二丁目八─九)にあった。不狭学舎の同門には後輩となる福本日南がいる。彼もまたチンチク壁の家に生まれている。
 堅太郎が生まれた寛永六年は、アメリカ艦隊司令長官ペリーが軍艦四隻を率いて浦賀に入港した年である。幕府に開国を迫る諸外国との重要局面を迎えた幕末、まさに日本近代化の扉が開かれようとした時代のうねりの中にあった。
 文久三年(1863年)、堅太郎は十一才で藩校修猷館に入学する。当時は階級制度が厳しく大組(六百石以上)の子弟は表玄関から入ったが、軽輩の子弟は内玄関から、医者・坊主の子弟は裏口からと出入口が区別されていた。成績の席次についても下級の者はどんなに成績が良くても一位にはなれず、上位は大組の子弟が独占していた。堅太郎は不合理を痛感していたが、どうにもなるわけではなくただ黙々と勉学に励む。だが、その優秀さは群を抜いており席順がどうであろうと秀才ぶりは万人の認めるところであった。
 この年、下関海峡で長州による外国艦船砲撃や薩摩と英国間で薩英戦争が起こり、あわただしい変革の時を迎えつつあった。堅太郎の胸に去来していたのは、無知への焦燥であったかもしれない。修猷館で学ぶだけでなく昼休みには金山和蔵の塾で学び、早朝は不狭学舎にも通うのである。

 慶応三年(1867年)堅太郎が十五才で元服した年に大政奉還が起こり王政復古となる。
 年号改まった明治元年(1868年)、清蔵が病死する。家族を愛してはくれたが酒で失敗を繰り返し、酒で命を縮めた父であった。享年四十三才。堅太郎はわずか十六才で家督を継ぐ。祖母と母、弟妹を扶養することとなり暮らしは一層苦しいものになった。しかも清蔵は一代限りの士分という身分であったため禄を食むことも適わず、その後、銃手組に編入されたものの手取りは十二石であった。
 だが明治二年(1869年)、修猷館の成績が評価され、堅太郎は永代士分に取り立てられ、秋月藩への留学を命じられる。藩校・稽古館では陽明学を学ぶが、ほどなく修猷館に呼び戻される。混迷の中にある時代、優秀な人材は宝であった。当時の藩知事は黒田長知である。殿様知事の地位は非常に不安定であり、中央集権に移行したものの、三百年にわたり営々と築かれてきた藩主への思いは時代の変化についていけないものがあった。修猷館でも論議が展開された。
「長知公が知事になられたが、いつなんどき朝廷の命によって奥州辺りに転任せらるることがあるやもしれぬ。我々筑前藩士は、いかなる態度をとるべきであろうか」
 教授たちが学生に問うと一斉に憤激の声を上げる。
「われわれは黒田家三百年の厚恩に報いる覚悟がある。一同打ち揃って上京し、朝廷に嘆願して命令撤回を求める。叶わぬ時は藩主を擁し福岡城を枕に討ち死にするまでである!」
「そうだ、そうだ」

藩校時代の堅太郎(徳太郎)17歳頃(左端)
藩校時代の堅太郎(徳太郎)17歳頃(左端)
 前年、会津戦争で白虎隊の悲劇が起こったばかりである。少年たちが息巻くのも無理はない。そんな中、たった一人異論を唱える少年がいた。堅太郎十七才。
「おれはそげん思わんばい。政府の命令ば聞くとが、ほんなことじゃろうもん。幕府は倒れて新しい中央政府がでけたとじゃけん、今までとは違うとばい」
「何っ!金子!お前やあ殿様の厚恩ば忘れたとかっ」
「忘れとりゃせん!決して忘れちゃおらんばってん、殿様は知事として政府の命ば聞かるるとが当然じゃろうが。今は中央政府が日本ばおさめとるばい。おれたちがわあわあ言い出したら、かえって殿様に迷惑のかかるとぞ。それこそ不忠者じゃろうもん」
 堅太郎の意見は筋が通っている。誰も反論できなかったが、さりとて撤回同調することもできず、シーンとなったまま散会したのであった。だが、おさまらないのは堅太郎の方である。
 (おれの意見は決して間違っていない。なのに、誰も賛成しない。きまりが悪いのか、いずれにしても卑怯だ)
 堅太郎は寄宿舎を抜け出し、講堂に忍び込むと壁に大きく落書きした。
 『腐儒喋喋読何書』
 わざわざ、その下にちょんまげを結った老学者が読書をしている戯画まで描いた。腐れ学者がくだらぬことを喋りたてているが、いったい彼らはどんな書を読んでいるのか!と野次ったのである。翌日は館内大騒ぎである。犯人は堅太郎に決まっている。教授連に呼び出されると大目玉であった。しかも寄宿舎を追い出され、自宅謹慎を命じられた。
 (やりすぎたかな)
 数日後、館から出頭しろという。
「上長を侮辱する行為は許し難いが、日頃の勉学熱心に免じて復学を許す。以後慎め」
 教授連も堅太郎の説に理があることは明白であったのである。堅太郎の学業はますます磨きがかかり、他の追随を許さなかった。