ご挨拶 Greeting

次代を拓いた国際人 金子 堅太郎

近代化のための法を学ぶ

 明治七年(1874年)九月、堅太郎はイングリッシュ・ハイ・スクールの試験に合格し飛び級で二年生に編入する。しかし三年になると卒業の四ヵ月前に高校を退学してハーバード大学のロースクールを目ざすことにする。法を学び修得することを目的としたのである。周囲の説得を振り切り退学したのはハーバード大学のロースクールへの入学準備のためであった。英邁な堅太郎は、今、国に何が必要なのか、最優先すべき重要課題は何であるかを見抜いており、法の整備こそ日本の近代化に不可欠だと考えたからである。開国時の不平等条約を改正することは明治日本の悲願であった。
 準備のために弁護士のオリーバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアと交流を深め、ロースクール入学のための助言を得ている。目的達成のために着々と計画を進めるのは、堅太郎の真骨頂といえるかもしれない。堅太郎は少年時代、「艱難汝を玉にす」という格言を好んだ。いかなる時も刻苦勉励をいとわなかったのは、それが自分を鍛える一つの過程であると信じ得たからである。
 明治九年(1876年)、ハーバード大学ロースクール(法学部)に入学。ハーバード大学には、後に外務大臣として日露戦争期にポーツマス講和会議にともに注力する小村寿太郎が文部省派遣の官費留学生として入学していた。堅太郎はオリーバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアの勧めもあり積極的にボストンの上流社会、いわゆるビーコンストリートの社交界の人々との交流に励んだ。ハーバード大学の教授、哲学や歴史の著述家、米国連邦下院議員、美術史家など多彩な人脈が広がっていく。「日本の一学生が燕尾服を着てビーコンストリートに出入りする者は自分以外に一人もいない」と言うほど堅太郎が交流に力を注いだのは、単なる知識や語学研磨のためだけではなく、心情や文化、発想を理解するためであった。土日ともなるといずれかの晩餐会に招かれて歓談し、時にはさまざまな話題について意見を述べ合う。堅太郎は敢えて米国人の輪に入っていくのである。
 グラハム・ベルとの出会いもその一つであった。文部省派遣の留学生であった井沢修二とともにボストン北部郊外のグラハム・ベル宅を訪ねている。後に東京音楽学校長、東京師範学校長を歴任し我が国の西洋音楽教育の基礎を築いた井沢修二は、音楽の勉学のために留学しハーバード大学では理学を修めている。グラハム・ベルは電話機を発明した人物だが、当時は貧しく、同情した堅太郎は幾度となく彼を援助した。目的のためにひたむきな努力を重ねるベルに共感を覚えたのだろう。電話機の最初の外国語通話は堅太郎の博多弁であった。日露戦争の折、ベルが日本国債を惜しげもなく購入したのは、ただひとえに堅太郎への友情ゆえである。
 明治十一年(1878年)六月、ハーバード大学卒業。法学士の称号を得て八年間の留学生活を終えることとなる。青春時代を彩ったアメリカでの日々は珠玉の輝きを放っており、故国に帰る喜びと別れ難い米国の恩人たちへの思いが交錯し、長い漢詩を編むのであった。