ご挨拶 Greeting

次代を拓いた国際人 金子 堅太郎

ポーツマスへの道─連鎖の任

 明治二十八年(1895年)日清戦争の勝利からわずか九年後、日露戦争が不可避となる。苦渋の選択を決断せざるを得なかった日本政府首脳は鉛を胸中に呑み込んだような日々を送っていた。約300年の鎖国を解いて近代化への道を歩みはじめた日本の前途が霧中に閉ざされようとしているのである。
 明治三十七年(1904年)二月四日未明、日露開戦を決定する御前会議が開かれようとしていた。枢密院議長伊藤博文は、明治天皇の火急の参内に身を固くした。天皇は苦悩するあまり食欲もなく睡眠も満足に取れない状態が続いており、御前会議のその日、空が白みはじめるのを待って伊藤を召したのであった。戦争可避の可能性を最後まで探り意見を聞きたいとのご下問である。
 伊藤博文は天皇の心中を忖度し忌憚のない意見を述べる。国家存亡の危機に際して思いは一つである。
「国難が迫ってきております。我が軍乾坤一擲の戦いとなるでありましょう。陛下におかれましてもいよいよお覚悟召される時がやってきたと申せましょう。ロシアの侵攻を許せば、いずれにしても我が国は大魚に呑み込まれてしまうやもしれませぬ」
「そうか…」
 御前会議は午後一時四十分に始まり午後六時少し前まで続いた。重苦しい空気の中、ついに開戦が決定したのであった。山県有朋、桂太郎、山本権兵衛、小村寿太郎、児玉源太郎、大山巌、伊藤博文が参会している。
「もはや日露の交渉は決裂している。いかなる手段を講じてもかの国は日本をひねりつぶさんと、その一点のみで進めている…」
「ロシアと国交断絶は避けられまい」
 天皇は終始無言で、元勲はじめ陸軍海軍外務大蔵各大臣の発言を瞑目して聞いている。
「やむを得ぬのだな…」
 堅太郎に伊藤博文から電話があったのは午後六時を回った少し頃であった。御前会議が終わるのを待って数分と経たない。
「すぐに官舎に来てもらいたい」
 霊南坂の官舎につくと二階の伊藤の書斎に入った。
「まかり越しました。御用をお尋ねしても宜しいでしょうか」
「君、食事は済んだか」「私は済んでおります」
「すまんが、我輩はまだだ。食事を済ませてから話したいが…」
 伊藤の食事は質素なものであった。白粥と刺身、煮物が少々。それさえロクに口にせず、結局女中に下げさせる。堅太郎が見れば伊藤は下唇を噛んで考えている。それが重大事を考える時の伊藤の癖であることを堅太郎は気づいていた。堅太郎がふたたび用向きを聞こうとした瞬間である。
「君を呼んだのはほかでもない。これから急遽アメリカに行ってもらいたい」
「それはいかなる御用でございましょうか」
「本日、御前会議において日露開戦が決定した。ただいま小村に命じてロシア駐在の栗野公使に国交断絶を通知する電報を発した。明朝、開戦の発表になるであろう。ついてはすぐにアメリカに行ってもらいたい」
 堅太郎はこの数年の形勢から察しはついていたが、自分がアメリカに行くという展開は想像していなかった。伊藤の口から発せられる言葉は、さらに意表をつくものであった。
「この戦争が一年続くか、二年続くかわからぬ。だが、勝敗が決しなければ大国ロシアを相手にいつまでも戦い通せるわけがない。よってすぐさま両国の中に入って調停する国がなければならぬ。イギリスは我が同盟国だからくちばしは出せぬ。フランスはロシアの同盟国であるから然り。ドイツは日本を敵視しておる。頼みとするところはアメリカだけである。公平な立場において日露に介在してもらい平和的な解決を見るべく勧告を望みたい。君が大統領の懇意にしていることは我輩も知るところである。直接、大統領及びアメリカ国民に日本の意図するところをあまねく伝えて欲しい」
「…。私は閣下もご存知の通り長い間アメリカに留学しておりましたから、アメリカをよく知っているつもりです。それがため私は非常に窮しております。私はアメリカの事情を知っているがゆえにお断りを致します。閣下の命とあっても軽々しくお引き受けし、国家存亡の危急に不都合が生じることを懼れます」
「それはどういうわけか」
「アメリカが独立して間もない、1812年の英国との戦いの折、ヨーロッパ諸国はみな英国を助けましたが、ロシアだけが米国側に立って援助し、結果、講和条約へとつながりました。南北戦争に際して英国は南方を助け武器弾薬を送り込み、北方を脅かしました。英国艦隊はニューヨーク湾に入って威嚇しています。これをロシアが追い払うという厚情を示しています。非常に親露派が多く、いまだに恩を感じる人も少なくありません。商業においてもロシアの鉄軌・機関車・貨車はアメリカから供給されています。さらに、アメリカの富豪は金は持っているが名誉がない。そこでロシアの貴族と婚姻していますから、アメリカ・ロシアの有力者は姻戚関係が多い。関係の薄い日本から私ごとき者が行ってアメリカの同情を動かそうなど不可能です。金子の微力では到底成しえない。遺憾ながらご辞退申し上げるほかないのでございます」
「しかし、君以外にこの任務を果たす者はいない」
「私以外にも留学経験者は多数います。能力もある」
「いや、違う。ルーズベルトと腹を割って話せるのは君しかいない。なんとしてもアメリカを取り逃がすわけにはいかないのだ」
 押し問答が続いたが、伊藤は一段と声を高めて言った。
「君は不首尾に終わることを懸念して行かないのか」
「さようでございます」
「それならば言おう。今度の戦いについては一人として成功すると思う者はいない。陸軍でも海軍でも大蔵でも勝てる見込みを立てている者はいないのだ。しかしながら、だからといって打ち捨てておけばロシアはどんどん満州を占領し、朝鮮を侵略し、やがては我が国に暴威をふるうであろう。事ここに至っては国を賭しても戦うの一途あるのみ。成功不成功などは眼中にない。いよいよロシア軍が我が国に迫ったとあらば、伊藤も最後の一兵卒として鉄砲を担いで戦うつもりだ。君も成功不成功を問わず、君のあらん限りの力を尽くして事にあたってくれ。それでもし、アメリカが同情せず、ルーズベルト大統領も調停してくれないとなれば、それはもとより誰が行ってもできない」
 さすがに堅太郎も腹を括るしか選択肢がなく、この空前の難関に立ち向かうことになるのである。
 『志あれば途あり』自ずと道は開ける、念じるように一呼吸置いて承諾したのであった。
 伊藤はただちに桂総理大臣を呼び出すと指示を与える。桂は金子に言った。
「今回の渡米については特命全権大使という名前をやっても良い。枢密顧問官に任じても良い。いかなる官職でも希望があれば聞きたい」
「一切、必要ありません」
「なにゆえか」
「私がもし官職を持ってアメリカに行けば、金子の行動は政府からの訓令になります。金子の演説は政府の命令になり、ロシアを舌鋒鋭く非難することがあれば、たちまち政府に影響が出る。私は無官の一人として切り込む所存であるからです」
「ならば、アメリカにて新聞を買収するか記者を操縦するための費用は十二分に君に支給しよう」
「それもお断り致します。もし、一、二の新聞を買収または記者を操縦するときは、他の新聞は連合して反対する。かえって不利を招くゆえに新聞に対しては一視同仁、誠意を持ってあたりますから費用は一文も要らないのです」
 桂から報告を聞いた伊藤は思ったはずである。
 (金子こそ真の外交官である。我が輩の目に寸分の狂いもない)
 堅太郎は、その日、妻の弥壽子に語った。
「今度の戦争は一年続くか二年続くかわからぬ。あるいは私もアメリカで病死するかもしれぬ。後事は伊藤、井上元老が引き受けられたから家計の心配は要らぬ。だが、苦労をかける。皆を頼む」
 明治三十七年(1904年)二月十四日の朝である。バタバタと靴音が気忙しい。
「なんだ騒々しい」
書生を呼ぶと血相を変えて飛んでくるではないか。
「大変でございます。皇后様がここに行啓になります」
「なにっ。皇后様が」

「今朝は早々から金子の家を騒がせますことを気の毒に思う。金子は近々米国に渡航する由、その御用の趣きは知らざれども、このたびの日露の両国戦争となりたれば、金子が米国に行くことは必ず重大な任務を奉じてのことならん。よって御国のために十分尽力するよう親しく金子に依頼せんがため、今朝早々来たりたる次第なり。なお海陸長途の旅行、在米中は身体を大切にして任務を尽くされたし」
 昭憲皇后は沙汰を賜るのだった。
 こうして堅太郎の五度目の訪米が決まった。

 三月十八日、堅太郎はニューヨークに在った。今までの渡航では感じなかった空気が金子を包んでいる。親露的な雰囲気である。緊張感を覚えたが、影の全権特命大使を拝命している堅太郎に後戻りはできない。まさにたった一人の戦いであった。旅装を解くと、留学中の同窓生や知己に可能な限り会うよう連絡を取る。一対一の対話こそ外交の基本である。無冠の大使は、どの出会い、いかなる人物に対しても誠心誠意心を開いて対話した。対話することで堅太郎はかつて留学時代、毎晩いずれかの晩餐会に出かけ意見交換していた感覚を取り戻すのだった。堅太郎を訪ねてくる知人・ 友人は皆、「熱誠なる同情を示し、かつ我が軍の戦勝を祈る者もいた」のである。堅太郎は、それがアメリカの国民性であるアンダードッグ観であることに気づいた。アンダードッグ観とは、負け犬、つまり弱者への同情心である。戦争の経緯、原因追及ではなく、単に大国ロシアに対して弱小の日本が宣戦布告せざるを得なかった悲壮な状況に対する同情心である。演説のテーマがおぼろげながら見えてきた。
 堅太郎が今回の最大の重要人物セオドア・ルーズベルトを訪ねたのは三月二十五日である。実に十四年ぶりの再会であった。高平公使を介してホワイト・ハウスに行くと、ルーズベルトは数十人の訪問客が居たにも関わらず駆け寄り、肩を抱かんばかりに執務室に招き入れた。
「君はなぜもっと早く来なかったのだ。私は待っていたのに」
 笑顔を見せる。
 堅太郎はこのとき再会を心底喜べたのであった。重い荷をルーズベルトが降ろしてくれたような安心感が広がった。だが、戦いはこれからである。堅太郎の広報活動ははじまったばかりであった。