修猷山脈 Shuyu-sanmyaku

近代日本を作った藩校の息吹 国家事業の展望

安川 敬一郎やすかわ けいいちろう

安川 敬一郎

1849(嘉永2)年~1934(昭和9)年
衆議院議員・安川財閥創設者
九州工大の創設者

 福岡藩の儒学者徳永省易の四男として福岡城下に生まれた。幼名は藤四郎。安川岡右衛門の四女と結婚し、家督を相続。敬一郎と名を改める。藩校に学び、慶応4年(1868年)には藩の祐筆に登用される。翌明治2年(1869年)、藩命により藩費留学生として京都に留学。帰藩後は執政局に出仕した。さらに静岡留学を経て東京滞在中、長兄・徳永織人が贋札事件の責任をとって切腹したため一時帰藩する。その後、ふたたび上京し慶応義塾大学に入学するが、次兄の幾島徳が佐賀の乱で戦死し、急遽、帰郷したので学業を断念。幾島の仕事を引き継ぎ炭鉱経営に着手。二男の松本健次郎と二人三脚で事業を拡大していく。産業の近代化に大きく貢献する。安川電機、八幡製鉄、明治専門学校(現・九州工業大学)、九州鉄道の設立に関わり、日本を牽引する。玄洋社の活動を支え、孫文を支援したことでも知られる。男爵。貴族議員、衆議院議員。

團 琢磨だん たくま

團 琢磨

1858(安政5)年~1932(昭和7)年
三井財閥総帥・工学博士

 福岡藩士馬廻役神尾宅之丞の四男として荒戸町に生まれた。幼名は駒吉。12才の時、藩の勘定奉行團尚静の養子となり藩校で学ぶ。金子堅太郎とともに黒田長知に随い岩倉具視使節団に同行して渡米、留学。マサチューセッツ工科大学に入学する。鉱山学を学び帰国後、東京大学理学部助教授となり工学・天文学などを教える。明治17年(1884年)に工部省に入省。鉱山局次席を経て三井三池炭鉱の経営に着手。三井財閥の総帥として活躍する。三池港の築港、三池鉄道の敷設、大牟田川の整備・拡張を行い、近代産業を支えた。日本工業倶楽部を設立し初代理事長就任をはじめ日本経済連盟会(日本経済団体連合会の前身)を設立するなど日本経済界の先導としても辣腕をふるう。血盟団員・菱沼五郎の狙撃により死去。妻は金子堅太郎の妹・芳子。平成23年(2011年)、九州新幹線鹿児島ルート全通の際には、團の功績を称えて新大牟田駅に銅像が建てられている。

中野 正剛なかの せいごう

中野 正剛

1886(明治19)年~1943(昭和18)年
衆議院議員・東方会総裁ジャーナリスト

 旧福岡藩士中野泰次郎の長男として西湊町(現・中央区荒戸)に生まれた。幼名は甚太郎。福岡県中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に学び、緒方竹虎と親交を結ぶ。在学中から雄弁会『玄南会』をつくるなど熱い談論を展開した。安川第五郎、緒方竹虎も参加する。在学中に自ら正剛と改名。明治38年(1905年)、修猷館卒業後、早稲田大学政治経済学科に進学し、東京朝日新聞社に入社した。玄洋社を主宰する頭山満との知遇を得て、アジアの青年育成を支える活動をすすめていく。ジャーナリストとしても数々の政治評論を掲載し注目を集めている。昭和17年(1942年)、軍閥政治を憂慮し、早稲田講堂で「天下一人を以て興る」という演題で東條を弾劾する大演説を行う。後に首相となった竹下登は、この演説を聴いて政治家を目ざしたといわれている。反東条派を推し進めるなか憲兵隊により監視下に置かれ、自宅で一言も声を漏らすことなく割腹自殺。柔道家でも知られた。

緒方 竹虎おがた たけとら

緒方 竹虎

1888(明治21年)年~1956(昭和31)年
副総理・国務大臣
衆議院議員・自由党総裁
ジャーナリスト

 蘭学者の家系にあり内務省に勤務する林学者・緒方道平の三男として山形県で生まれた。父の福岡県書記官時代に福岡に移る。福岡師範学校附属小学校から福岡県中学修猷館に進学。小学校から修猷館まで無遅刻・無欠席・無早退を通すほどの努力家。12才で幾岡一致館に入門して剣道を習い修猷館時代にはすでに小野派一刀流免許皆伝となり剣道の達人の域に達した。明治39年(1906年)、修猷館卒業後は、東京高等商業学校(現・一橋大学)に進み、中退して早稲田大学政治経済学科に編入学。中野正剛割腹自殺後、葬儀委員長を務め最後まで親友として絆を重んじた。日中の和平工作に注力し、小磯内閣の際に国務大臣兼情報局総裁として入閣。政治家としての道を歩む。保守合同に心血を注ぎ、鳩山首相の最有力後継者と目されていたが急逝。修猷館創立70周年記念式典で「どうか我々の志を継いで日本の再建をやり遂げて貰いたい」と占領軍によって強制された憲法改正を訴えた。