修猷山脈 Shuyu-sanmyaku

近代日本を作った藩校の息吹 文武両道の伝統

葉室 鐵夫はむろ てつお

葉室 鐵夫

1917(大正6)年~2005(平成17)年
オリンピック金メダリスト
ジャーナリスト

 福岡県立修猷館中学校を明治37年(1904年)に卒業した柔道五段の豪傑の父・吉太郎の意に反し水泳部に入部し、昭和10年(1935年)卒業、日本大学予科に進学。昭和11年(1936年)のベルリンオリンピックで200m平泳ぎにおいて、ドイツのエルビン・シータスとの接戦の末に金メダルを獲得。当時、アドルフ・ヒトラーも観戦しナチス式敬礼でこの栄誉を称えたという。昭和15年(1940年)に第一線を退くまで平泳ぎ200mでは世界ランキング1位を維持。競泳会の最高指導者として後輩を育成した。引退後は毎日新聞社に入社。運動部記者として、アメリカンフットボールの甲子園ボール創設に携わるなど、第一線記者としても活躍し文武両道の実践を貫いた。平成2年(1990年)に国際水泳殿堂入りを果たす。在住していた大阪府高石市の名誉市民に選ばれ、没後の2011年に功績を讃えられて高石市ふれあい健康増進センター(通称:スポラたかいし)に記念コーナーが設けられている。

安川 第五郎やすかわ だいごろう

安川 第五郎

1886(明治19)年~1976(昭和51)年
東京オリンピック組織委員会会長
九州・山口経済連合会会長
九州電力会長
日本原子力発電初代社長

 安川財閥創始者である安川敬一郎の五男として、福岡県遠賀郡芦屋に生まれた。福岡県立修猷館中学校(現・福岡県立修猷館高等学校)に進学。同期に緒方竹虎、一年先輩に中野正剛がおり、在学中は玄洋社の明道館において柔道を学んでいる。明治39年(1906年)卒業後、第一高等学校を経て、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業し日立製作所に勤務する。米国にて研修の後、帰国して兄・清三郎とともに、株式会社安川電機の前身である、合資会社安川電機製作所を創設。モーター・電動機に製品を絞り込み発展を遂げる。その後、昭和30年(1955年)、日銀政策委員、翌年、日本原子力研究所(現・日本原子力開発気候)初代理事長、昭和35年(1960年)、九州電力会長、翌年、九州経済連合会初代会長を歴任し、昭和38年(1963年)、東京オリンピック組織委員会会長に就任する。実業界の重鎮として活躍する傍ら、スポーツ振興に尽力し、東京五輪の功労により勲一等旭日大綬章を授与される。大会運営の見事さからIOCのブランデージ会長から特に五輪旗を寄贈されている。