沿革

修猷館高等学校同窓会の先駆けは、明治32年広田弘毅ら在京の卒業生が学生生活の拠点として作った「浩々居」である。
その後、広田らは帝大在学中に一高在学中の斉藤延、五高の池田隆徳、藤沢幹二らと「文筆の趣味を養い、同窓生の交通機関たるべき雑誌」の発刊を計画し、在校生らにも呼びかけて同窓会雑誌部を設置した。
『同窓会雑誌』は明治35年12月に第1号が発行され、大正15年からは『学友会雑誌』となり、現在の『修猷』という名称になったのは昭和6(1931)年である。なお同時に、卒業生に関する『菁莪』が別冊子となった。

同窓会は主に在校生の部活動等を組織するものであり、現在の同窓会とは異なっていた。大正15(1926)年には学友会と改称している。
卒業生の組織としては、館友会があり大正3(1914)年には集会施設の建設を呼びかけている。
これが卒業生、生徒、保護者への呼びかけで大正4(1915)年に建設された菁莪堂である。

卒業生の同窓会組織は、大正7(1918)年、卒業生を同窓会特別会員にするという制度を設け、525名の加入が認められた。これが卒業生の同窓会組織の始まりである。
そして大正8(1919)年発行の『同窓会雑誌』に、卒業生特別会員のための「菁莪」の項が設けられ、卒業生の記事や消息が掲載されるようになった。
なお『菁莪』は昭和6(1931)年に別冊子となった。また、県外の同窓組織も会合を開くようになった。
大正3(1914)年に海軍兵学校在学の卒業生が玄南会を発足させ、大正5(1915)年には東京帝大卒業生、在学生による帝大修猷会が発足した。
岡山修猷会(大正9年)、一橋修猷会(大正10年)などが開かれた。さらにアメリカ合衆国のサンフランシスコで、大正10年に桑港修猷会が発足している。

同窓会とは別組織であるが、大正8(1919)年、財団法人修猷協会が発足し、福岡県知事安河内麻吉を会長として、教員の待遇をよくするための資金援助を行い始めた。
第二次世界大戦の困難な時期を乗り越え、戦後の混乱した時代に卒業生のつながりをつくるべく、同窓会組織の設置を望む声が高まり、昭和21(1946)年11月3日、修猷館講堂で発会式を行った。
初代会長は合屋友五郎(明治40年卒)であった。
会員は卒業生、準卒業生、中途転退学者の希望者であった。本部は修猷館におくことになった。
同窓会では昭和23(1948)年に県内在住者の名簿を発行し、24年には復刊された雑誌『修猷』に『菁莪』を併せて、会員の消息や寄稿を掲載した。
また昭和26(1951)年には全会員の名簿発行が決定され、昭和27年卒業生までの名簿が初めて発行された。
さらに26年からは正式な機関紙ではないが、同窓会新聞『修猷通信』が発行されるようになった。

修猷館定時制は、昭和16(1941)年の、福岡県玄洋中学の発足にさかのぼるが、戦後は昭和23(1948)年に夜間課程として再発足した。
同窓会組織は昭和34(1959)年に発足する。
会長には山形深(高3回)が就任した。
通信制課程は戦後、同じく昭和23年に県下唯一の通信教育部として発足し、昭和36(1961)年には学校教育法の改正で、独立した通信制課程となった。
そして昭和37(1962)年、二十数名の卒業生が集まり、同窓会通信制部会が設立された。

昭和37(1962)年に、財団法人修猷協会が再発足し、理事長には同窓会長の安川第五朗が就任した。
修猷協会は土地取得をおこない、修猷学館を建設し、昭和40(1965)年に県から認可を受けた。
なお同窓会館は昭和44(1969)年に完成している。
また、創立190周年の翌年、昭和51(1976)年、同窓会長江浦重成寄贈の3千万円によって「修猷資料館」が建設され現在の姿になっている。

同窓会年譜

明治25(1892)年 金子堅太郎の勧誘により、教職員と卒業生の会、修猷館館友会を創設。
その会報は後の同窓会雑誌の萌芽となった。
明治35(1902)年 在校生代表、大学在学中の先輩広田弘毅等と協議の末、同窓会雑誌部を創設。
大正4(1915)年 卒業生から菁莪堂が献堂される。
昭和21(1946)年 11月3日 修猷館同窓会発足
昭和24(1949)年 雑誌『修猷』復刊、福岡県立修猷館高等学校と改称
昭和30(1965)年 創立70周年記念式
昭和38(1963)年 安川第五郎同窓会長が東京オリンピック組織委員長に就任
昭和44(1969)年 修猷館同窓会館竣工
昭和50(1975)年 修猷館百九十年記念祭
昭和51(1976)年 江浦重成同窓会長寄贈の修猷館資料館落成
昭和60(1985)年 修猷館200年記念式、『修猷館二百年史』発刊
平成7(1995)年 創立210周年記念式、生徒海外研修始まる(修猷協会助成)

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