修猷山脈 Shuyu-sanmyaku

近代日本を作った藩校の息吹 外交戦略の源流

栗野 慎一郎くりの しんいちろう

栗野 慎一郎

1851(嘉永4)年~1937(昭和12)年
初代駐フランス特命全権大使

 福岡藩槍術師範栗野小右衛門の長男として荒戸町に生まれた。幼名は昇。藩校で学んだ後、瀧田紫城の塾『折中堂』で漢学、国学、医学を学ぶ。慶応元年(1865年)、藩命により長崎留学生として何礼塾で英語と洋学を習得する。明治8年(1875年)藩費留学生としてハーバード大学に入学。金子堅太郎、団琢磨、小村寿太郎と親交を結び卒業後、外務省に入省する。日露戦争時は駐露公使として宣戦布告文を提出するなど困難な交渉を任せられる。率直な対外交渉能力と誠実な人柄が諸外国から信頼され、数々の条約改正に貢献した。明治25年(1892年)米国と日米改正新通商条約の調印を成し遂げ、その後スペインの条約改正を成功させる。さらに日仏通称公開条約の調印で積年の懸案事項であった不平等条約改正を完了する。駐米公使、イタリア公使、フランス公使、ロシア公使、スウェーデン公使歴任。特命全権大使としてフランスに駐在。子爵位授与、枢密院顧問官。

明石 元二郎あかし もとじろう

明石 元二郎

1864(元治元)年~1919(大正8)年
陸軍大将・第7代台湾総督

 福岡藩士明石助九郎の次男として大名町に生まれた。藩校を経て陸軍士官学校入学、さらに陸軍大学校に学ぶ。ドイツ留学後、フランス、ロシアに赴任。日露戦争時は情報将校として活躍した。日本陸軍最大の謀略戦はその後、陸軍中野学校で講義されたほどである。ロシア革命の影の立役者といえるかもしれない。ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている」と称えた。優れた諜報工作だけでなく、台湾総督時代は台湾電力を創設し水力発電事業を推進したり帝国大学進学の道を開いたり、さらには華南銀行を設立するなど台湾の近代化に貢献した。今日でも明石の遺徳を偲ぶ人は多く、明石自身も遺骸を台湾に葬るようにと遺言し、事実、埋葬されているほど深い交流があった。ドイツ語はもちろんフランス語、ロシア語、英語に精通しており、世界を舞台の諜報戦略はスケールの大きな成功に導いた。男爵位授与。

山座 圓次郎やまざ えんじろう

山座 圓次郎

1866(慶応2)年~1914(大正3)年
外務省政務局長・駐中国特命全権公使

 福岡藩の下級武士山座省吾の次男として生まれた。藩校に学び、その後、天文学者・寺尾寿の学僕として東京大学予備門に進み、東京帝国大学法科大学を首席で卒業する。東京大学予備門の同期には夏目漱石、正岡子規、南方熊楠、秋山真之がいる。東大卒業後、外務省に入省。釜山総領事館、仁川領事館、イギリス公使館、京城領事館勤務を経て、外務大臣・小村寿太郎から政務局長に抜擢される。わずか36才であった。あまりの有能さに「山座の前に山座なく、山座の後に山座なし」と言われたほどである。小村寿太郎のもとで、外交を支え日英同盟締結、日露交渉を担当。日露戦争の開戦から講和まで中心的活動を担っている。大正2年(1913年)、駐中国特命全権公使となり、辛亥革命後の中国に赴き同地で客死。温和な反面、武道にも秀でており、武勇伝には事欠かない。広田弘毅を育てたことでも知られている。

広田 弘毅ひろた こうき

広田 弘毅

1878(明治11)年~1948(昭和23)年
首相・外務大臣
駐ソビエト特命全権大使

 福岡市鍛冶町(現在の天神三丁目辺り)で石屋を営んでいた広田徳平の長男として生まれた。幼名は丈太郎。大名小学校、修猷館、一高、東京大学に進学。大学時代に山座圓次郎の知遇を得て満鮮シベリヤ視察を行なう。日露戦争を念頭に置いていた山座の期待に応え、秀逸の報告書を作成している。外務省入省後は英国大使館、アメリカ大使館、オランダ公使を務める。ソビエト特命全権大使として勤務後、外務大臣就任し在任中「断じて戦争はない」と協和外交を推進している。2・26事件後、総理大臣に就任する。極東軍事裁判の後、一票差で文官で唯一の死刑宣告を受ける。在位10ヵ月の首相だが、「我、黙して往かむ」と自己弁護を一切拒否し従容と刑を受ける。その潔い姿勢が人々に深い感銘を与えた。福岡初の首相として知られる。柔道も強く文武両道を実践した。福岡市天神の水鏡天満宮にある日清戦争戦勝を祝して建立された石碑には、わずか十七才の広田弘毅による見事な揮毫が残されている。