修猷山脈 Shuyu-sanmyaku

近代日本を作った藩校の息吹 独自文化の形成

福本 日南ふくもと にちなん

福本 日南

1857(安政4)年~1921(大正10)年
衆議院議員・史論家
ジャーナリスト

 旧福岡藩士福本泰風の長男として地行下町(現・中央区今川一丁目)に生まれた。幼名は巴。父の泰風は平野国臣と親交のあった勤王家で北海道開拓にも参加している。藩校卒業後は、司法省法学校(現・東京大学法学部の前身)に入学するが「賄征伐事件」で原敬、陸羯南、加藤恒忠らと退校処分になる。明治22年(1889年)、陸羯南、国分青崖らと新聞『日本』を創刊。数多くの政治論文を発表。日英不平等条約改正案をいち早く翻訳して掲載するなど話題を集める。日本新聞社の後輩には正岡子規がいる。ジャーナリストとして活躍する一方、孫文の中国革命運動を支援、後にアジア諸国支援のための東邦協会を設立する。明治38年(1905年)西日本新聞社の前身である九州日報の主筆(後に社長に就任)として数々の著作を残す。元禄快挙録執筆により忠臣蔵を国民的ブームとし、第一回義士会を開催した。泉岳寺には日南の碑が建てられている。政治家として憲政本党から立候補当選。

寺尾 寿てらお ひさし

寺尾 寿

1855(安政2)年~1923(大正12)年
天文学者・数学者
国立天文台初代台長

 福岡藩士寺尾喜平太の長男として那珂郡春吉村(現・博多区中洲)に生まれた。東の寺尾、西の金子と並び称されるほどの学才を示す。東京外語大でフランス語を修め東京大学に入学後、物理学を専攻。官費留学生としてパリに留学。パリ大学のティスラン教授のもとで気象天文学を学ぶ。帰国後は、日本においてはじめて子午線を用いた緯度測定を行なうなど最先端の知識を披瀝する。明治17年(1884年)東京大学理学部星学科教授に就任し理学博士になる。その後、東京帝国大学理科大学付属東京天文台(現・国立天文台)の初代台長に就任。明治22年(1889年)、パリでの万国測地学協会からメートル原器を持ち帰る。近代日本天文学の第一人者として後輩の育成にも尽力。博学な土壌を背景に努力を惜しまない勤勉さを貫き多くの知己から信頼を寄せられていた。明治の画家・黒田清隆は寺尾からフランス語を学び、東京外国語学校フランス語科に入学したとの逸話が残されている。

夢野 久作ゆめの きゅうさく

夢野 久作

1889(明治22)年~1936(昭和11)年
作家・ジャーナリスト

 明石元二郎の幼友・杉山茂丸の長男として小姓町(現・大名)で生まれた。代々杉山家は竜造寺隆信の末裔としての気概を持ち、国家天下のために奔走している。特に杉山茂丸は明治政界の立役者として八面六臂の活躍を果たし、頭山満率いる玄洋社を影となり日向となり支えている。夢野久作、本名は杉山直樹。修猷館中学校を明治41年(1908年)に卒業し、父の意向を汲み軍隊に志願。陸軍少尉に任官、除隊後、慶應義塾大学に入学。だが、中退して出家、杉山泰道と改名し修行。還俗し杉山農園で文筆業に没頭する。福岡を沃野に多彩な世界を描き出した作家として知られている。幻想的な作風が強い印象を与える『ドグラ・マグラ』は独特のジャンルを築き上げた。まさに異能多彩な人物。大正8年(1919年)に九州日報(福岡日日と合併して西日本新聞社となる)の記者としても活躍。長男・龍丸はアジアの経世済民に心を砕き杉山農園を売却してインドの緑化に尽力する。

和田 三造わだ さんぞう

和田 三造

1883(明治16)年~1967(昭和42)年
洋画家・版画家
日本色彩研究所理事長

 旧朽木藩の御典医和田文碩の四男として兵庫県朝来郡(現・朝来市)に生まれた。兄・宗英が大牟田の鉱山業に従事するのを期に一家で福岡に移住。大名小学校を経て修猷館中学校に進学する。明治33年(1900年)、画家を志し、父や教師の反対を押し切って2年生3学期で退学、上京して黒田清輝に師事する。後に東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。数々の作品を紹介し注目を集める。明治42年(1909年)、文部省美術留学生として渡欧。フランスを中心にヨーロッパ各国を巡歴し、洋画とあわせて工芸図案の研究も行う。昭和2年(1927年)、帝国美術院(現・日本芸術院)会員となる。同年、わが国における色彩の標準化の必要性に着目し、日本標準色協会を創立。映画『地獄門』でアカデミー賞衣装デザイン賞、文化功労賞を受賞するなど繊細な筆致と卓抜したデザインで数々の賞に輝く。カンヌ映画祭でも高く評価される。