ご挨拶 Greeting

名誉会長 黒田 長高 氏

黒田 長高

 この度は、ここ福岡市で開催される第十三回全国藩校サミットにご多用中のところ遠路ご参集賜りまして誠にありがとうございます。
 私共福岡黒田藩は黒田如水を藩祖とし、昨年は皆様ご存じのように大河ドラマにより一躍名が知れるようになったわけですがその後江戸時代に入ってからの黒田家についてはよくは知られていないのではないかと思います。江戸時代に入り徳川幕府の世になり、戦いのない時代になりましたが各藩とも今度は幕府に睨まれないように自分の藩の治世に力を入れるようになります。そして藩士の教育にも目を向けるようになります。
 そもそも黒田家の学問は藩祖如水公が学問を重視し、折を見ては家臣たちへ読書、習字を勧めていたことから始まり、息子の長政公も儒学に興味を持ち、儒学者から論語・孟子の講義を聴き、孔孟の道を尋ねていたそうです。その後の三代目光之公の時代に貝原益軒という儒学者が生まれ、後に正式に藩士として登用され、藩命により学者の育成にも当たり、そして藩校創立を建言しております。
 その後しばらくの間は藩財政の窮迫、飢饉等が度重なったため、藩士の文武奨励教育のために学校等を作るように考えたのは江戸時代中期ごろになってからで、第七代治之公がその発起を唱えましたが若くして逝去されたため叶えることができず、続く第八代冶高公も治国わずか半年で逝去されたためこの計画は叶いませんでした。そして第九代斉隆公の代になり天明四年(一七八四年)ようやく東学問所(後の修猷館)と西学問所(甘棠館)という二つの学問所が開校します。東学問所の初代総受持は貝原益軒の高弟竹田定直の外孫定良が任じられました。西学問所の総受持には亀井南冥が任じられますが西学問所は後に東学問所修猷館に併合され藩校は一校となり、その後の廃藩置県による藩校廃止などの時代の波を乗り越え、県立中学修猷館を経て現在の福岡県立修猷館高校へと続き、昨年創立二百三十周年を経ることができました。
 藩校が設立されると藩士の子弟は十一歳になると入学が義務づけられ、福岡藩のその教育に対する情熱の原点となる藩校教育がスタートします。修猷館では朱子学のほか国学、和文、和歌などの教育がなされ、のちには武道場を設ける等正に文武両道・質実剛健の精神を以て若者たちの可能性を開花させてきております。そして藩校廃止後の再興にあたっては充実した英語教育により現代にも通じるグローバルな時代到来を予見した人材育成を成し遂げております。
 現在の修猷館も藩校時代からの質実剛健の精神を引き継ぎ、また何よりも生徒の自主性に重きを置き、自分自身に責任を持つことのできる主体性に富んだ人材を養成することが教育方針ともなっております。
 江戸時代に日本全国に数々存在した藩校のなかで藩校名とその精神を今もって継承し、人材育成に臨んでいる教育がここ福岡にあることを皆様にご理解いただければ幸いです。