ご挨拶 Greeting

次代を拓いた国際人 金子 堅太郎

藩校再興へ─旧藩主の思いにこたえて奔走

 憲法の草案作りは内閣制度の採用からはじまった。それまでの太政官制が廃止され、伊藤博文は初代の内閣総理大臣になり堅太郎も内閣総理大臣秘書官となる。草案はもっぱら神奈川県金沢の旅館・東屋の裏二階で行なわれていたが、盗難事件をきっかけに伊藤博文の別荘に場所を移して行なわれるようになった。そんな激務の中、堅太郎には忘じ難い念願があった。かたときも離れることがなかったかつての学び舎藩校の再建である。年末年始の休暇を利用して福岡に帰省すると長薄・長知の意を伝え、旧藩士たちに呼びかけた。県令と県会の衝突によって県立中学校が閉鎖され、さらに廃藩置県で藩校が廃絶されたため青年の教育機関はまったく存在せず、これを強く憂えた長薄の教育にかける情熱を説いて回った。堅太郎自身も教育の重要性を痛感し、その教育ゆえに現在の自分があることを誰よりも認識していたからである。
 一切を黒田家が負担すると言う条件で中学修猷館が再興された。新たな時代の使命を担って誕生した英語専修修猷館である。文部省は藩校を思わせる修猷館の名称に難色を示したが、堅太郎はこれを一蹴する。私費を投げ打って教育再建をはかる黒田家を思えば、藩校の名を残すのは当然であった。
 明治二十一年(1888年)春、ついに一応の憲法草案が固まり、制定会議が赤坂御所内の皇居で開かれることになった。起草にあたった三人はそれぞれの分野の説明を行い審議を待つ。堅太郎の担当は、衆議院議員選挙法と貴族院令の原案作成であった。
 憲法発布は明治二十二年(1989年)二月十一日と決まった。堅太郎は枢密院書記官兼議長、秘書官を拝命。宮中の大晩餐会に出席する栄誉に浴すなど、もはや押しも押されぬ法の大家となっていた。