ご挨拶 Greeting

次代を拓いた国際人 金子 堅太郎

二度目の米国訪問─欧米諸国で議員制度を視察

ハーバード大学留学当時
ハーバード大学留学当時

 二度目のアメリカ渡航および初のヨーロッパ視察が決定したのは、明治二十二年(1889年)のことである。枢密院書記官を拝命した堅太郎が提出した意見書による。
 明治憲法(大日本帝国憲法)の起草にあたり、特に皇室典範・議院法・衆議院議員選挙法を担当した堅太郎は、「作った仏に魂を入れなければ」完全ではないと考えた。仏に魂を入れる、すなわち憲法は機能してはじめて、その意味を持つ。金子は法の先進国である欧米諸国の議院制度を調査し、我が国に即した議院制度を確立し、立法・司法・行政の仕組み作りを次なる仕事と定めたのである。憲法発布までは一年半の猶予期間がある。この期間を利用し、第一回議会開催のための準備をしておかなければならない。また何より重要なのは、若き憲法学者たちが心血を注いで完成させた大日本帝国憲法を欧米諸国に広く喧伝する必要があると考えたからである。いわば近代国家日本のプロパガンダである。
 留学生時代に欧米諸国に対する広報の在り方を学んだ堅太郎は、フェイス・トウ・フェイスの対話こそ心を開かせしめ、強く訴え得ることを肌で感じていた。堅太郎の意図、能力を知る伊藤博文に異論のあるはずもない。起草者の一人、元老院書記官長井上毅の薦めもあり堅太郎の派遣が決まった。時に堅太郎三十七才。
 明治二十二年(1889年)七月、宮中に参内し明治天皇に拝謁し、四名の随行員とともに横浜港を出帆した。訪問国は堅太郎の第二の故郷とも呼ぶアメリカにはじまり、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、オーストリア、イタリアという大視察旅行である。
 一行は二週間の航海を終えた八月四日、サンフランシスコに上陸。堅太郎にとっては十九年ぶりのアメリカであった。堅太郎は単身ボストンに赴くとハーバード大時代の旧友らと交流しつつ、大学のエリオット総長の招待を受ける。エリオット総長は堅太郎訪米の目的を十二分に理解し、学識の誉れ高い政治家であると同時に議会制度に精通した国務長官ゼイムス・ブレインの紹介状を授けるのであった。ゼイムス・ブレインから早速、別荘へ招待を受けた堅太郎は、ここでも一級の外交を展開する。ブレイン長官から憲法に対する答弁を求められるや、よどみない回答でこれに応え、賞嘆の拍手を得るのである。
「ことごとくブレイン閣下のご意見のように制定いたしております」
 あらかじめブレインの著述はほとんど目を通している。質問に対する答弁にはブレインの私見を引用し、かつ独自性を盛り込んでいる。誠実で堂々とした態度はお互いの距離を一挙に縮めただけでなく、また一つアメリカでの強力な人脈を構築したのであった。
 八月三十一日、随行員と合流し英国のリバプールに向かう。リバプールを経由しロンドンに入り、パリでは万国博覧会を見学。堅太郎はなかでも高い鉄製のエッフェル塔に驚愕すると同時に製鉄技術の粋に文明の力を痛感したのだろう。産業の近代化を進言するのは帰国後まもなくのことである。ドイツ議会、オーストリア議会を調査し、ロシアでは海軍のバルチック造船所や砲台を巡覧している。感嘆の声を漏らす堅太郎は、十四年後の戦争など予想しなかったに違いない。
 各国を歴訪し、議会傍聴したり各国の学識者との意見交換会に参加したりと、その働きは調査官というより広報官である。何よりも優れていたのは、堅太郎が面談した名だたる学識者からすべからく多大な信頼を得、協力を仰ぐことを可能とした点にあるといっても過言ではない。信頼を勝ち得るに至ったのは、そこに日本が紡いできた歴史に対する誇りを訴えたからかもしれない。ロンドンのオックスフォード大学のウィリアム・アンソン教授はじめホランド教授他数名の教授が異口同音に進言する。
「貴公の国、日本はかくのごとき歴史に富みながら、今日までこれを世界各国に知らしめざるは実に遺憾の極みなれば、速やかにそのことを知らしめよ」
 さらに、「もし日本の歴史に関する書物の訳書がなければ当オックスフォード大で翻訳し、我々が日本について研究を進めていきたい」とまで請われたのである。その国を知るにはまず歴史から学ばなければならない。歴史を学ぶことで民族の痛み、誇り、知恵を理解することができる。他国の歴史を知るということはその国の誇りを尊重する、ということなのかもしれない。
 オックスフォード大のホランド教授は、歴史広報の必要性を急務としながらも、国際法学者として日本と欧米諸国の関係を知らしめ、協調体制をとるための段階として国際公報協会の入会を示唆した。不平等条約の改正を悲願としていた日本にとって、この示唆する意味は大きい。二年後、日清戦争勃発時、英国民の反日世論を沈静化させたのはホランド教授である。ロンドン・タイムズ紙上で日本に好意的な見解を発表しただけでなく今後の方向性まで意見している。会談の際の堅太郎の好印象が教授の親日を後押ししたことは間違いない。