ご挨拶 Greeting

次代を拓いた国際人 金子 堅太郎

日清戦争と閣僚の道

 明治二十七年(1894年)、堅太郎は農商務次官を拝命する。それまで法律家として歩みを進めてきた堅太郎に白羽の矢が立ったのは、法学の知識と実践に加えてホームズ判事の進言による経済政策の研究成果が評価されてのことであったといえるだろう。堅太郎は農商務次官に就任するや否や製鉄事業調査委員会を設置。自ら委員長になると製鉄所の候補地選定作業に入った。八幡はじめ鹿児島、山口、広島、静岡、大坂、東京、釜石、北海道など十六ヵ所が挙がったが、種々の条件を勘案して八幡に決定。井上角五郎代議士はこの決定を良しとせず攻撃してきたが、論拠を持たない喧嘩越しの反対演説では勝負にならない。
「金子次官は郷里のために製鉄所を持っていくつもりかっ」
「郷里のためではない、日本国のためである。八幡という地の利を考え、海路、陸路の便、なおかつ原材料の供給を考えれば八幡が最適であると判断したまでである」
 しかし、堅太郎がその理由を論じる途中で井上は捨て台詞を残して退席し、八幡製鉄所開設が決定したのであった。この事業計画により日本ではじめての近代的溶鉱炉が生まれていくのである。
 明治三十年(1897年)、二月六日、農商務省告示が出されている。
「当省所管の製鉄所は福岡県下、筑前八幡にこれを措く」
 筑豊炭田を背後に有する八幡の利便性が決定打となったわけだが、八幡村長・芳賀種義の尽力も大きい。最有力候補地だった広島の呉を破ったのは官民一体の誘致活動に負うところが大きかった。
 製鉄事業の着手を急いだ背景には軍備があった。堅太郎は農商務省という経済の中枢にいながら日本の外交を視野に入れた経済政策を次々に進めていった。資源に乏しい日本の活路を商工立国という視点で描き、切り拓いていくのである。イギリスに学んで商業会議所の創設を成し遂げ、東京株式取引所理事長に就任するなど多才ぶりを発揮した。
 第三次伊藤博文内閣では農商務大臣として入閣。工場法案を提案する。工場法案とは工場内で働く男女職工の健康を擁護する人権を重視した法案である。人こそ最大の資源であることを堅太郎は知っていた。工業を推進していく原動力は労使双方の歯車が合致してこそ成り立つ。堅太郎の目線は偏りがない。理不尽なものをいかに排除し、万民が平等に権利を享受できるかを考えるのを身上としていたのかもしれない。
 明治三十一年(1898年)四月、母校ハーバード大学から名誉法学博士号授与の通達がもたらされた。卒業からすでに二十四年が経っていた。堅太郎四十九才。授賞式は公務の多忙を理由に一年遅れとなったが授賞式のため四度目の訪米を果たす。日本人としてはじめて同大学から授与された博士号であった。
 明治三十三年(1900年)五月、堅太郎は大日本帝国憲法制定に尽くした功労により男爵の爵位を拝受することとなった。黒田藩出身者でははじめての快挙である。同年九月には第四次伊藤博文内閣で司法大臣に就任。かつて平賀義質の学僕として司法省の玄関先で御用箱を抱え、主人の帰りを待っていた青年が司法省の頂点に立ったのである。堅太郎は人知れず感涙をこぼすのであった。司法大臣就任の栄誉を待って母・安子が永眠する。父・清蔵亡き後、再婚を勧める人の言葉に一切耳を貸さず、女手一つで堅太郎、辰三郎、次郎、芳子の三男一女を育て上げ、早逝した清蔵のもとへと還っていったのであった。